私のヨガの先生は、生徒にきついポーズをさせている間、気を紛らわせる目的もあってヨガにまつわる講話をしてくれる。
今日は、クリプトで大儲けして、もう今生一歳働かなくてもいいらしい20代男子のお弟子さんの話をしてくれたのだが、その中で彼が「サントーシャとはなんですか」と質問をしてきた、という話であった。
Santosha サントーシャとは、ヨガ・スートラと呼ばれるヨガの教典に出てくる言葉の一つで、日本語だと「知足」「足るを知る」という意味である。
自分の持っている物で十分満ち足りている、持っていない物を追い求めてあくせくする必要はない、という心の状態を指す。
気持ちがザワザワした時にふっと自分を見返してみたら、病気で苦しんでいない自分に気がつく、暖かい寝具で毎夜眠りにつくことができる、困った時に助けてくれる家族がいる…なーんだ私の人生捨てたもんじゃないじゃん??ホッとして平静な心に戻る。それがサントーシャ。この気持ちの状態をいつも保っていられるのが理想だ。
仕事で失敗しても家で待っている家族がいる。カレシに振られても話を聞いてくれる友達がいる。子育てがうまくいかなくても自分も子供も身体は健康だし、と、コツを掴めばサントーシャはオールマイティでマルチパーパスな、辛いときにはいつでも思い出して自分に言い聞かせられるめっちゃ便利な言葉である。
下を見ればキリがないだろうが、とか負け惜しみっぽいだとか、ツッコミを入れやすいのがタマにキズだけれども、私は数あるヨガの教えの中でもサントーシャという言葉が大好きだ。
ブッダはヨガの瞑想から悟りを開き、逆にヨガ・スートラの編纂には仏教の考え方が大きく影響した。切っても来れない従兄弟のような関係にあるこの2つの哲学の共通点は「瞑想を通じて心穏やかに生きる」ということであり、ヨガはもともと静かに座って瞑想に入るために身体をほぐして整えるためのものであった。
だからヨガ・スートラの教えは、仏教に馴染んだ私たちの日本語に訳すとぴったり来て、この「知足」のように本来の意味が伝わりやすい。
サントーシャは英語だと
Contentment コンテントメント
となる。コンテントメントは本来
The state of being happy and satisfied 幸せで満足している状態
という意味。
私は幸せだ、を意味する形容詞の2大巨頭は Happy と Content 。だけどこの2つは含みが違う。Happy は、積極的に幸せ。物事を体験して得る喜び。誰かを好きになったり、旅行に行ったり、仕事でうまく言った喜び。で、時間的に短い。
Content の方は長く続く静かな幸せ。幸せな状態にいる、という意味になる。だから、「足るを知る」サントーシャは後者の Content の名詞形、Contentmentがベターな訳になる。
ちなみに「煩悩」。これはヨガ経典で Kleshas クレシャと言うが、文化の背景が違う英語だとこの訳が
Suffering 苦しみ
となってしまう。悟りを開くのに邪魔になるものという意味で Obstacles (邪魔)という訳のほうがいいと思うのだけれども、英語で書かれた仏教の本ではかならずSuffering 。これは誤解を招く訳やなーといつも思う。
ヨガの先生の口から「サントーシャ」という言葉が出た途端に私の思考は地面を蹴ってふわりと飛びあがり、上に書いたことを取り留めもなく考えながら、きついDownward Dog 下向き犬のポーズで腕をブルブルふるわせていた。
やっと下向き犬から解放されて私の思考も戻ってきたら、先生の話はすでに次の「シャンティ」に写っていた。私の育った町にはシャンティと言う名の昭和っぽい怪しげなスナックがあり、この言葉を聞くたびうらぶれた三番町裏の繁華街を思い出す。あゝまた思考が飛んでいく….
ちなみにシャンティは「平和」を指す。スナックのママさんは平和を願ってこの名をつけたのかな?
結局、そのクリプト長者が先生にサントーシャの何を聞きたかったのかは全部聞き逃してしまった。きっと、想像できないくらいのお金をクリプトで手に入れた自分、もう働かなくても食べていける自分、だけどまだ20代。コレで満足するべきなのか、金銭的に何不自由もない状態もサントーシャなのか?そのあたりをきっと悶々と考えていらっしゃるのではないかと想像する。
私が今、遊んで暮らしていけるくらいのお金を手に入れたら昔の私とは違う使い方をする。車やバッグはもういらない(フム、バッグは少し欲しい)。できたら大きな寄付をして、私のお金で学校に行けたり清潔な水を飲める人を増やしたら、それが私をサントーシャまで急行で連れて行ってくれるのでは。これマジで。
年の功である。
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