なんちゃってニューヨーク

普通の人のアメリカ生活


リボーン・ハルキスト

Reborn リボーン

という言葉をお聞きになったことがあるだろうか。再生する、とか生まれ変わる、という意味だ。

よくこの単語が使われるのは

Reborn Christian リボーン・クリスチャン

または Born-Again Christian ボーンアゲインクリスチャンともいうんだが、この定義がなんともごっつい。

 A conversion experience, accepting Jesus Christ as lord and savior in order to be saved from hell and given eternal life with God in heaven.

なにかの理由でクリスチャンではなかった人、他宗教を信じていたり、無神論者、またはクリスチャンでありながら道を外れた生き方をしていた人などが「改めてキリスト様を神様として受け入れ、地獄から救済されて天国で神とともに永遠の生命を与えられること」。

生まれながらのクリスチャンならば生後まもなく受ける洗礼を改めて行ってもらい、今後は自分の人生を変えまっとうなクリスチャンとして行きていく、という強い決意を持つという意味合い。

どうしてそんな事を考えているかというと

この過程を経て敬虔なクリスチャンとなった人は何かしら理由があってここに至った人たちが多いので、原理的で保守傾向にあるように見受けられ、いつもいい加減な自分とは相容れないものを感じている、そんな表現だ。

なのになぜこんな言葉について思いを巡らしているかと言うと、そのきっかけはここ最近オーディオブックで「耳読」していた村上春樹さんの『職業としての小説家』だ。えらく感じ入り、私はすっかり生まれ変わったリボーン・ハルキスト、これからは春樹ファンとして行きていくという決意(?)を新たにしたからだ。

私とハルキの歴史….

私が高校のときにデビューなさった春樹さんの小説は、大学でも読んでいない子はいないというくらい一斉を風靡した。その頃、春樹さんの出身である早稲田大学文学部男子たちと親交があり、彼らが延々と居酒屋でハルキ論を繰り広げるのを耳にするにつけ、なんだか

『村上春樹、ニガテなの』

って言えない雰囲気の、少なくとも文系・オタク系男女の間ではそういう感じだったのだ。

なんで羊男なの?なんで壁の向こう?と読むたびに奇妙に不安定な気持ちにさせるハルキをそれでも読んだのはまさしく

FOMO  フォモ Fear of Missing Out 仲間はずれになりたくない

この一心からだった。でもニガテなものはニガテなんだよねー。『ノルウェイの森』の冒頭3行が私の最後のハルキ体験だった。

『遠い太鼓』。小説はもう一切読んでいなかったが、このヨーロッパ紀行文は夢中で読んだ。今も手元にあるが、読み返して表紙は擦り切れ、色もあせた。カバーの折れ線は毛羽立っている。読んだことがないという方はぜひ読んでほしい、ギリシャに行きたくなるよ。

なーんだこの人、小説じゃなければすっごい好き!それからは、出版されたエッセイや紀行文はすべて読んだ。

オーディオブックで本を聴くということ

『職業としての小説家』は発行が2016年ということだから約7年前。文庫で持っているので読んだのはその1、2年後か。今回それはそれはマメに来るオーディブルのメールに『今月のニューリリース』として案内が出ていたのでダウンロードして聴き始めた。

キンドルがいいか、紙の本がいいかと言うのは大きく意見が分かれるところだと思うが、紙やキンドルで『読む』のがいいかオーディオブックで『聴く』のがいいか、と言うのは更に難しい命題だ。というのは読む人の声、これが大きくその質を左右するから。

その点、この『職業としての小説家』これは最高に当たりだった。朗読は、小澤征悦さん。言わずとしれた、世界の指揮者小澤征爾さんの息子さんだ。すこし前に本棚の奥にあったハルキさんの『小澤征爾さんと音楽について話をする』の文庫本を発見し読もうと思っていたところだったのでその息子さんが朗読とは、とシンクロを感じてしまったぞ。

小澤さんの、ちょっとおかしみを含んだ温かい声がこの内容にぴったり、というか私が勝手に感じ取っているハルキさんの文章の硬質な冷たさがうまい具合に緩和され、ホントならちょっと嫌味っぽく聞こえていたかもしれない部分もユーモアを含んで素直に耳に入って来る。

私の中の『ハルキ』フィルターを小澤さんの声がうまく払拭してくれたそんな感じで、内容を緊張せずに(ハルキさんの文章は読むときになんとなく緊張する)聞き進めることが出来た。

風の歌を聴け誕生秘話?

で、内容に参った。私は完全にハルキ教に改宗だ。リボーン・ハルキストだ。

この温かい声で聞くだけで、ハルキさんの恐ろしいほどの観察力や頭の良さ、鋭さに萎縮することなく、なるほど、と頷けた。メッセージの含まれていない行がない、つまり無駄な文章も表現も一切ないことにも気づいた。

それもそのはずだ。デビュー作の『風の歌を聴け』を書き上げたとき、文体に納得できなかったハルキさんは、同じ内容を、ネイティブランゲージでない英語で書き直した。日本語ではネイティブであるがゆえにひとつひとつの言葉にあまりの重みと示唆と意味が含まれてしまい文体がゴテゴテになる(という表現はされていないが)。

それを排除するために、自ら語彙が限られている英語で書くことによって言葉の組み合わせから生まれる可能性をさぐり、自分の英語を逆に日本語に戻しつつ独特のシンプルな表現法を生み出した、と書いてあるくだり。

だから、ハルキさんが書き、文章に入れて印刷を許した時点で役割や目的を振り当てられていない言葉は一つもない、ということだ、と解釈した。

聴き比べ

私がもう一つ好きな本『走る時について僕が語る時に語ること』も紙で読んだが、こちらも『職業としての』が終わったあとオーディブルで聞いてみることにした。

うーん、朗読は人によって好き嫌いがあると思うけどワタシ的には小澤さんが読み直してくれたらウレシイ。大沢たかおさんは読みは上手なんだろうけれど、ちょっと『ハルキ風』にスカしたキザな感じがいただけない。この感じこそ、私が以前から持っていたハルキさんのイメージだ。頭がよく、なんだか見透かされてしまっているような座りの悪さ。

そうか、小澤さんの素朴な声はすごいイメチェンだったのか。

誰にでも時が流れる

そして内容。このニ冊はちょうど10年くらい間が空いているようだ。55歳と65歳。

『職業としての小説家』は11の章に分かれている。そのそれぞれが、まるで『もうこの年なんでね、頑固にスカすのはやめたんですよ、考えていることを、読む人がうーんと考えないとわからないような仕組みの難解な文章じゃなくてね、正直に書いてみようと思ったんですよ』と言っているみたい。すこしハルキさんの脳みそをのぞかせてもらったような気がしたエッセイは、これが初めてだった。

この10年でハルキさんも変わられたんだね。肩の力がぬけ、こだわりのつよさや薄っすらとした世間への反発みたいなものが抜けた気がする。

楽しい文章を書くときのハルキ風に表現するとしたら「ぬか漬けを水で塩抜き」した感じ?だろうか。厳しくて硬質でいつも緊張させられた彼の文章だったけれど、塩が抜けたか。

そして私も変わった。この春樹さんの本がこんなの心に響いたのは、これもまた小澤さんの声や春樹さんの変化のせいだけではなかったのかもしれない。



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ニューヨークから40分南に下ったニュージャージー州から発信。だから「なんちゃって」ニューヨーク。マンハッタンのおしゃれな情報をお探しの方は他にたくさんブログがありますのでそちらをご参照くださいね。元・MBAの仕事人、在米約30年のアラ還。アメリカ人の夫とエンプティネスト元年を満喫中。わんこ3匹で毎日がわや、普通の人のアメリカ生活の記録です。

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