なんちゃってニューヨーク

普通の人のアメリカ生活


アートとクラフトの境目

どこまでがクラフトで、どこからがアート(芸術)なんだろう?

一般的には、アートは表現であり鑑賞が目的であるのに対し、クラフトは目的や機能性を持って作られるもの、と定義されるようだけれど、私にはその境目がなんともあやふやにみえてしょうがない。

クラフトはアートの一部なのか、それとも別物?クラフトに過ぎなかったものが時代を経て、もう実用的なお道具ではなくなった時点で貴重品となり、アートへと格上げするのか?

第一なぜにアートのほうが格が上っぽいのか?

洋裁も編み物も、何でも手でちまちま作ることが大好きな私は、小さいときから手が空いていることはあまりない。いつもなにか作っている。

子育ての一時期、自分でデザインした子供服やスタイなどの赤ちゃん用品を売る小さなオンラインの店を開いた。材料を注文し、裁断から仕上げまで自分一人で作ったものをお客さんが『スキ!』してくれて、買ってくれるのは無上の喜びだった。

自分は Crafter クラフターだけれど、Artist アーティストだと思ったことはない。

私はパッチワークもハワイアン・キルトも大好きで作ったものがたくさんある。趣味のクラフトだ。でも、18世紀に作られたキルト、となるとこれはもう美術館に飾られる立派な芸術品だ。

私が子どもたちのために作ったキルトも23世紀には『アメリカに移住した日本人による作品』とカードをつけてもらって展示されることが….まあないだろうけど、もしかしたら。

クラフトが時間を経てアートへと昇華するという仮説は案外正しいかも知れない。

ミケランジェロが教会の壁に描いた大フレスコ画、あれは内装、いわゆるインテリアだったと言えなくもない。乱暴な理論ではあるけれど、インテリアには目的も機能性もあるということを考えると、制作の時点ではアートではなくクラフトだったといえるかも?

The Last Judgement By Michelangelo – derivated work

なかよしの犬友さんは、イタリアで古い美術品や家具の復刻を正式に学んだアーティストさんだ。その腕を活かして、細かい彫刻を施した見事な椅子やテーブルを作るが、彼の作るものは実用品でありお客さんはそれを『家具』と呼び『芸術品』とは呼ばない。

家具の制作で使った同じ木材をそれはそれは正確に切断し、見事なルネッサンスのだまし絵風のはめ絵も作るが、それは額に入れられ夏に展覧会が開かれた。そちらはれっきとしたアートだ。

同じ人が同じ技術を用いて作るものが、用途も呼ばれ方も違う。そして、彼の作る家具は200年後には21世紀初頭の彫刻家具、として美術館に展示されその時はアートとして扱われるのかもしれない。

この境目の曖昧さ。きっと答えは聞かれた人ひとりひとり違うはず。丹念な日本刺繍、私はアートだと思うけれどそう思わない人もいるに違いない。だって着物や帯には『着る』という目的と機能性があるから。

この疑問がまたまた湧き戻ってきたのは昨日、マンハッタンである日系女性アーティストの展示を見てきたから。

Ruth Asawa ルース・アサワ

という名の日系二世のこの人は、世界大戦後の後半を日本人収容キャンプで過ごした。その後美術学校へと進み、そこで知り合った建築家の男性と結婚して6人の子供をもうけた。お母さん芸術家である。

彼女の作るものは生前から高く評価されてサンフランシスコの美術界では知らない人はいなかったようだが、あまり表には出ず、キッチンの片隅で料理と子育てをしながらワイヤーを使った彼女独特のオブジェを静かに作り続けていた。

By Original work: Ruth AsawaDepiction: 19h00s – Own work, Fair use, Metropolitan Museum NYC

地域のアートシーンでは教育者として活躍し、サンフランシスコ市内の公立美術高校は彼女の名を取って Ruth Asawa San Fransisco School of Art と名付けられている。

昨日の展示会は、その有名なワイヤー作品ではなく、彼女が若い時から連綿と続けてきた練習用のアートやためし描き、デッサンや家族のスケッチなど、彼女亡き後、家中に残された膨大な数の彼女の制作の足あとを追うものだった。

友だちが持ってきてくれた大きな葉っぱにインクを塗り版画にしたもの、じゃがいもを彫って作ったスタンプ、まるででいたずら書きのように見える白黒インクの文字の羅列に巨大な魚拓。

売るためにではなく、毎日何かしらを見て紙の上に表現し続けてきたもの、切れっ端も含めて家中のあちこちに無造作に残された何千枚の『作品』の一部を展示したものだった。

『作品』としてつくったものではないものが大半だ。

学生時代に洗濯室においてあった『ダブルサイズのシーツ』と刻まれたはんこを連続しておしてデザインにしたもの。昼寝をする旦那さんをスケッチしたもの。

フェルトペンの先っぽを違う形に削ることでいろんな違ったタッチを生み出して、柔らかい感触を出したインクの毛布の中に赤ちゃんの寝顔が埋もれているもの。

それらが時系列や対象物ごとにきちんと整頓され、素晴らしい照明の展示室に飾られ立派なアートとなった。

私はモナリザも最後の晩餐もホンモノを見たことはない。きっと実物を目にしたらとんでもない迫力に圧倒されてしまうに違いない。

そんなに有名な作品でなくても、印刷されたものと美術館で見る実物では、伝わる気圧が違うことをひしひしと感じる。

私は昨日の展示会ではそんな迫ってくるような『気』は感じなかった。一人の女性の歴史の真ん中を通る大きな流れ、溢れ出てくる『表現したい』という心。

とても柔らかでやさしくて、なにかに抗議するのでも、自分の中の暗いものを昇華するために表現するのでもなく、ただ見たものを写し取りたい、形にしたい、どんなふうに描き取れるだろう、こうしたらどんな風合いになるだろう、という純粋な好奇心、そんなものを感じ取った。

ニコニコと子供と遊ぶ姿や控えめに旦那さんの後ろに立つ地味な女性は、私のイメージする女性芸術家、例えばフリーダ・カーロや草間彌生さんとは全く相容れない。

大きな紙で折り紙のオブジェを折るルースさん。このグレーの地味なトレーナーと言い、かがみ込んでなにか作る姿と言い、普通のオバちゃんの私ととても似ています….

はんこやフェルトペンで生み出した彼女の作品や、眠る子供をスケッチしたもの。このカジュアルさは私のなかではアートではなくクラフトに分類されるものだ。

クラフトは優しいもの、家族や友達、暮らしのために、楽しんだり使ってたりしてくれる人たちを心において作るもの。そして、

アートはきびしくて激しいもの、強いメッセージを持ったもの、自分が表現したいもの。

そんな風に分ける判断基準が私の中にはあるのかもしれないと今思った……。

ルース・アサワさんのエキジビションは、マンハッタンのホイットニー美術館で来年1月15日まで開催中。

Ruth Asawa Through Line

https://whitney.org/exhibitions/ruth-asawa-through-line

Whitney Museum of American Art 

ホイットニー美術館 99 Gansevoort St., New York

地下鉄A・C・E線14ストリート(14 St)駅・L線8アベニュー(8 Av)駅から徒歩8分(チェルシーマーケットと同じ駅です)

月、水、木 10時30分~18時、金 10時30分~22時、土・日 11~18時

火曜定休

入場料25ドル、ただし金曜日7以降は入場料は任意の金額で入場できます(2023年9月現在)。6時頃から行列ができるのでお早めに。



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About Me

ニューヨークから40分南に下ったニュージャージー州から発信。だから「なんちゃって」ニューヨーク。マンハッタンのおしゃれな情報をお探しの方は他にたくさんブログがありますのでそちらをご参照くださいね。元・MBAの仕事人、在米約30年のアラ還。アメリカ人の夫とエンプティネスト元年を満喫中。わんこ3匹で毎日がわや、普通の人のアメリカ生活の記録です。

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