全米が注目する悲劇『リンジー・クランシー事件』アメリカの精神医療について

ニューヨーク・旅行・暮らし

現在、ボストン郊外のマサチューセッツ州 プリマス高等裁判所で公判中の「リンジー・クランシー事件」。出産専門の看護師で3児の母、Lindsay Clancy リンジー・クランシー被告が、2023年の1月に夫が夕食のテイクアウトを取りに行ったわずかの時間に5歳、3歳、8ヶ月の3人の子どもの首をエクササイズバンドで締めてさ○がいし、自らも飛び降りじ○つを図ったものの命をとりとめ、半身不随となったという悲惨な事件である。公判の様子がつぶさに放映されていて、全米で大きな話題になっている。

事件に至るまで

3人目の出産後に重い産後うつの症状に襲われたリンジーさんは、自分が精神的に追い詰められていることを自覚して医療機関に助けを求めたが改善せず、つぎつぎに危機相談窓口、救急外来を含む5つの機関を受診した結果、それらの機関・医師から事件前の5ヶ月間に13種類もの精神疾患の処方薬を投与されていた。

弁護側は、事件当時にクランシー被告が『処方薬の過剰投与や薬の相互作用(副作用)で過度の不眠やアカシジア(焦燥感・静座不能症)、幻覚や攻撃性の誘発を引き起こす「薬物中毒・精神錯乱状態」に陥っていた』として、「心神喪失による無罪(Not Guilty by Reason of Insanity)」を主張している。

彼女の自白と警察の捜査を元につなぎ合わせられたストーリーによると、事件のあった日は、朝からずっと「子どもたちをさ○がいして自分もじ○つしろ」という頭の中の野太い男の声に苛まれており、耐えきれずとうとう行動に移してしまったということだ。

裁判の争点と事件のドラマ性

この裁判の争点は、

①リンジーさんが実際に3人をさ○がいしたのかの立証(陪審員の全員一致で有罪の評決がでなければその時点で無罪)。

②さ○がいしたと立証された場合、検察側が主張する「第一級殺人罪」に問われて刑務所に収監されるか、弁護側が主張する「心神喪失による無罪」となり犯罪者を収監する精神医療機関に入院することになるか、

の二点である。証人喚問は11日目に入っていて、元夫、救急隊員、警察などの喚問をへて、数日前から「医療関係者」の喚問に入っている。

クランシー夫妻が美男美女で高学歴・高収入の理想的なカップルであったこと、夫が事件直後にリンジーさんに離婚を申し出て、わずか5ヶ月後にはリンジーさんの双子??と見間違うほどそっくりの女性と同棲を始めていること、事件後に集まった2億円以上の寄付金は世間の期待に反してリンジーさんの弁護費用に使われず、新しい女性と新生活を始めた夫が着服(という聞こえが悪いが)してしまったこと、など昼ドラのようなドラマ性が世間の好奇心を刺激して、SNSやYoutubeの事件解説系動画でヤンヤの大騒ぎになっている。

写真:ボストンの地方紙 https://www.bostonglobe.com/2026/07/20/metro/lindsay-clancy-trial-what-to-know/より

陪審員への印象も裁判の一部

素人コンテンツクリエーターたちがえんえんと「夫の供述が食い違っている」とか「夫に空白の数分間がある」など持論や推測をぶちまけてSNSに乗せるというのはあまりにも無責任すぎるとヒヤヒヤするが、多分この騒ぎは検察も弁護側も承知の上、いかにこの世論を利用して裁判を有利に展開させるかも腕のうちなのだろう。特に、「ほんとにリンジーさんがやったのか?」という疑問のタネを植え付けるのが弁護側に有利にならないはずはない。

一般人が陪審員を務めるアメリカの裁判では、被告や証人が与える「印象」が結果を大きく左右する。服装から仕草までを弁護士が計算尽くして裁判に臨むが、美しい被告が半身不随の車椅子姿で出廷し、裁判の間まばたき以外は身じろぎもせずひとところを見つめる姿と反対に、言っちゃなんだが担当検察官のイジワルな質問内容と耳障りな声は悪役そのものである。ちょっとしたテレビよりもよほどドラマとしての出来が良すぎて、アメリカ中が夢中になるはずである。

ちなみに、陪審員として着任する際には、事件に関する報道は一切見ないことという誓約書に署名をさせられることになっている。

パーフェクト・ストーム

リンジーさんが受診した医療機関は、事件の5ヶ月前から順に

①メンタルヘルス専門のオンライン/外来診療機関 アスター・メンタルヘルス

②サウスショア病院・周産期メンタルヘルス・プログラム

③ウーマン・アンド・インファント病院(女性医療および産褥期メンタルヘルスで全米屈指の専門性を持つ大学病院。

④マサチューセッツ総合病院救急外来

⑤ハーバード付属マクリーン精神病院

の5つである。①のアスター・メンタルヘルスの主治医とは他の機関と並行して事件の直前まで定期的に診察を受けていた。

全米でも指折りの機関の名前が並ぶが、その各機関で素人目にはどう見ても「医療ネグレクト」ではないかと思うような失敗やフォローの欠如が目立つ。完ぺきな精神医療などというものは存在しないだろうが、リンジーさんの場合はそれらの不運がとにかく完ぺきなタイミングで起こっていて、それが「パーフェクト・ストーム(完ぺきな嵐)」となって事件につながっていくさまが毎日公判で明らかになってきている。

リンジーさんが受けた医療

まずは、①のアスターで彼女の主治医となったのは、研修医期間を1ヶ月前に終えたばかりの臨床経験が浅い医師だった。短いZoomでの診察のあと、この医師に一般的なうつ病の治療薬ゾーロフトを処方されている。この薬を飲んだ副作用として睡眠障害に陥り、そこからはたった数ヶ月の間にズルズルと沼にはまっていくように彼女の精神状態が悪化していった。

心配したリンジーさんの義母(彼女も看護師)から②の専門外来に勤める知り合いを紹介されて受診。ここで産後うつがかなり深刻と診断される。その知り合いは他州への引っ越しが決まっていたため、同僚にリンジーさんの担当をバトンタッチする。このまま家族の知り合いに手厚く診療を受けていれば結果は違ったかもしれない。

代わってリンジーさんを担当した②の精神科専門看護師(NPと言って、処方箋を出す資格を持つ専門看護師)に、③の病院の2週間の産後うつプログラムに参加するよう薦められて受診するがここで「Overmedicated オーバーメディケイテッド(多量の薬を投与されすぎている)なので、このプログラムへの参加は不適切」と言われ半日で帰宅する(①の医師からすでに8種類の薬を処方され、②の専門看護師も数種類処方している)。

③の病院はこの件について②の看護師に連絡を取ったが返信がなかった、と言い、看護師は「連絡は受けていない」と証言。真偽の程はわからないが、この時すでに薬の大量摂取を指摘されていたにも関わらず、②の施設でも、その後に受診した⑤ハーバード付属の病院でも、定期的に診察を受けていた①の主治医も適切な対応をしなかったどころか、新しい抗うつ剤をさらに処方されている。

この間、助けを求めて911(110番)やじ○つホットラインに連絡をした記録が残っていて、12月末には自分が勤めていた④マサチューセッツ総合病院の救急外来を訪れている。そこで医師に勧められて⑤のマクリーン病院に入院する運びとなった。ちょうど新年にあたっておりスタッフはまばらで、面会に訪れた夫が「セラピーもなく、リンジーはただ粘土遊びをしていただけだった」と証言している。ここで新たな抗うつ剤2種の処方を受けて退院したあとは、事件の前日まで①の医師と週に一度の定期診察を受けており、マクリーン退院後の計3回の診察で新処方と薬の増量などの調整があった。

処方薬のリスト

焦点となっている処方薬。一体どこでどのくらい処方や調整が行われたのかをAIにまとめてもらった。以下の通り。

①アスター・メンタルヘルス

  • 期間: 2022年9月〜2023年1月(オンライン診療)

  • 処方・調整内容:

    • ゾロフト(Zoloft / セルトラリン): SSRI系抗うつ薬。初期段階からベース処方として使用・増量調整。

    • ラミクタール(Lamictal / ラモトリギン): 気分安定薬。気分変動の緩和目的で追加。

    • アミトリプチリン(Amitriptyline): 三環系抗うつ薬。マクリーン病院退院後(1月上旬)に新処方。10mgから20mgへ増量。

    • ヴァリウム(Valium / ジアゼパム): ベンゾジアゼピン系抗不安薬。他のベンゾ系からの切り替えおよび漸減(テーパリング)管理として指導。

    • トラゾドン・アチバン等の継続・微調整: マクリーン病院退院後も、症状に合わせて用量や服薬スケジュールの微調整を継続。

②サウスショア病院

  • 期間: 2022年10月中旬〜12月

  • 処方・調整内容:

    • セロクエル(Seroquel / クエチアピン): 抗精神病薬。強い不安や不眠・過緊張に対して処方。

    • クロンピン(Klonopin / クロナゼパム): ベンゾジアゼピン系抗不安薬。パニック・不安症状に対して処方。

    • アチバン(Ativan / ロラゼパム): ベンゾジアゼピン系抗不安薬。不眠・頓服および短期調整として使用。

    • アンビエン(Ambien / ゾルピデム): 睡眠導入剤。深刻な不眠対策として処方。

⑤マクリーン病院

  • 期間: 2023年1月1日〜1月5日(短期入院ケア)

  • 処方・調整内容:

    • アチバン(Ativan / ロラゼパム): 抗不安薬。退院時処方(14日分)。

    • トラゾドン(Trazodone): 睡眠薬・抗うつ薬。退院時処方(14日分)。

    • セロクエル(Seroquel)の減薬・中止: 入院中に段階的に減量(テーパリング)を行い、完全中止(オフ)とする方針で退院。

マクリーン病院退院後の①アスター・メンタルヘルス

  1. アミトリプチリン(Amitriptyline)の新処方

    • マクリーン病院退院後、タフツ医師は新たに三環系抗うつ薬であるアミトリプチリン(Amitriptyline)を処方(1月上旬〜中旬に10mgから20mgへ増量)。

  2. ヴァリウム(Valium / ジアゼパム)への切り替えと漸減(テーパリング)

    • ベンゾジアゼピン系抗不安薬の依存や副作用を軽減する目的で、ヴァリウム(Valium)への処方変更・減薬(漸減)を指導・管理。

  3. トラゾドン(Trazodone)およびアチバン(Ativan)の継続・増量調整

    • マクリーン病院退院時に処方されたトラゾドン(睡眠薬/抗うつ薬)やアチバン(抗不安薬)について、リンジーが依然として強い不安感や抑うつ症状、排他感(感情が麻痺する感覚)を訴えたため、用量の増量や服用スケジュールの微調整。

テレヘルス?

主治医であるアスター・メンタルヘルスでの合計14回の診察はすべて「テレヘルス」、画面越しのZoomでの30分未満の診察だった。短いものは17分の会話の後で、その日だけで数種の精神薬を処方するに至っている。この精神科医の診断はすべてがリンジーさんの画面越し自己報告に頼っていて「いずれは自分を傷つけてしまうんじゃないかと怖いけれど、今はそこまで行っていません」という言葉を鵜呑みにして「危険性なし」の欄にチェックを入れるという「ずさんさ」だった。

わたしはどう考えても「ずさん」と思うが、特にコロナ以降はこのオンライン診察方法や「チェックボックス型」診療が、問題視されながらも広く受け入れられるようになっているという。

そして、効果が出ない、あるいは副作用が出た場合、別の抗うつ薬や抗不安薬に変えて様子を見ること自体は一般的である。5ヶ月で13種とは極端な例であろうが、違法、または悪診療のカテゴリーには入らないそうである。

精神疾患をテレヘルスで対応するというコンセプト自体、もう理解できないのだが、世の中はそういう流れなんだろうか。画面越しでは読み取れないボディランゲージや目の動き、声のトーンや小さな仕草、そういうものが精神科の診察には不可欠なんでは?一度も対面治療をせずに薬の処方を大量に出すことができるというシステム自体、強い違和感を覚える。

各機関で、どの医師も過去カルテでリンジーさんの罹患歴を知ろうとしなかったことに驚く。リンジーさんが明らかに高リスク患者でありながら、受診したすべての機関で何らかの手落ちやフォローの欠如と無関心があった。

複数機関での情報共有がないまま、医者の経験不足や入院のタイミングなど負の歯車が完ぺきなまでに噛み合い、アメリカ医療の完全な分業制や縦割り構造の隙間にすごいスピードではまり込んでいく。看護師であるリンジーさんは取り憑かれたように精神薬のサーチを繰り返しており、医師たちに「この患者は知識があり投薬に関しても理解が深い」という妙な安心感を与えてしまったこと、画面越しのきちんとした態度が「錯乱状態にはない」と言う印象を与えてしまったこともうかがえる。まさしく最悪のシナリオが現実になってしまったような事件。

続きは次回

事件の報道を読むたびにまずやってくる感情は「リンジーさん、かわいそう(;_;)」である。残酷すぎる。亡くなった子どもたちも。家族も。検察側はリンジーさんの計画的な犯行であると主張していて、裁判の結果が出るまでは医療機関による多量の処方薬投与がリンジーさんを駆り立てたと立証されたわけではないのだが、裁判の結果がどうであれ、この公判で医療システムの深刻な問題点がここまで明らかにされ、私たちが常に感じる医療の矛盾にたいする違和感や不安感が正当化された気がする。

あまりに考えさせられることの多いリンジー・クランシー事件。アタマがぐるぐるしすぎているので、落ち着いてから次のブログで考えをまとめたいと思う。

フォローアップブログはこちらです↓

リンジー・クランシー事件 -アメリカ医療制度の矛盾が生んだ悲劇-
今日で14日目にはいる「リンジー・クランシー事件」の公判。事件のあらましと11日目までのまとめは前回のブログに詳しく書いた。一昨日は、検察側が召喚した解剖医師たちの証言が行われ、幼い子どもたちがいかにして酸素欠乏で死に至ったかという供述が延...

陪審員の評議に入った続編はこちら↓

リンジー・クランシー事件の続報
ボストン郊外のマサチューセッツ州 プリマス高等裁判所で審理が行われていた「リンジー・クランシー事件」。出産専門の 看護師で3児の母、Lindsay Clancy リンジー・クランシー被告が、2023年の1月に夫が夕食のテイクアウトを取りに行...

 

コメント

なんちゃってニューヨークをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む