先週、わたしの人生の4分の一を共に過ごした愛犬が静かに天国へと旅立った。…が、トロくてビビリの彼、天国への道がわからず今もこの家の中をウロウロしているかも。下の二匹が、同じ方向をじっと見て耳を澄ますような仕草をするし、わたしも気配をビシバシに感じる。いろんなご意見はあろうが、長男(犬)のスピリットはまだ私たちのそばにいる、ということにしている。
若い頃の写真を見返して、いかに彼が衰えていたのかを今になって実感する。下肢のリューマチが徐々にひどくなり、立つのも歩くのも難しくなっていた。このまま眠るように逝ってくれたら、と思うことが何度もあったが、本人にはそんな気はさらさらなく「食べタイ、遊びタイ、散歩に行きタイ」生きる意欲が半端ない長男だった。
ちょうど一年前のバレンタインに大きな肺炎を起こしてからはますます衰弱し(でもすごい食欲はかわらなかった)そのころからいつか「安楽死」の決断をくださなくてはいけないのだ、という重い心を抱えて介護した。
その日がやって来たのが先週の木曜日だった。3月3日お雛祭りの15歳の誕生日を2週間後に控え、とうとう本人も「もうこりゃあかんわ」と観念したかのよう。苦しそうな長男の様子を観察したあと、泣きながら訪問で安楽死をさせてくれるお医者さんに連絡を入れた。
あっけなかった。一緒に過ごした15年があっという間に幕を閉じた。誇張でなくわたしのそばを片時も離れることがなかった相棒のふわふわの耳をもう触れないという喪失感は半端なく、日になんども内臓をミキサーに掛けられているような、息ができなくなるような悲しみに襲われるが、それも時間とともに回数が少なくなっていくということをこの年になると知っている。日にち薬。深く息をして乗り切るしかない。
不自由な体と痛みからやっと解放され、のびのびと遊び回っているだろうことを心の底から嬉しく思う。この喪失感と悲しみを補って余りある喜びと新しい世界を私たち家族にもたらしてくれた特別な犬だった。3人きょうだいのようにして育ったうちの子たち。何があっても最期のときには駆けつけていただろう(人間の)長男は今、遠いヨーロッパにいる。電話口で泣きながら「He had a best possible life as a dog. 犬としてこれ以上ないような良い人生を送らせてあげたよね」と言う。その言葉を聞いてわたしも救われた。うん、ほんとにそうだ。後悔はない。いや、一つあった。まだまだ食欲のあった前日に、ステーキやハンバーガー、アイスクリームや大好物のりんごを思いっきり食べさせてあげればよかった。それだけ。
…そして、弱ってしまうまで待たずにもっと早く逝かせてあげればよかったんだろうか、生きたいという彼の意欲を優先させたのは正しかったのだろうか。そばにいてほしいと思うわたしのエゴだったのだろうか。この、答えの出ない質問をこれからも自分にずっと問い続けるだろうと思う。
思い出の量が多すぎて、これからどうやってそれらを消化していけばいいのか。でも、Celebration of Life セレブレーション・オブ・ライフ、彼の旅立ちを悲しむよりも、彼の人生と共に過ごした素晴らしい15年を祝福し、心の温まる思い出をしっかりと胸に抱いて、天国から彼が見守ってくれていると信じて次に会える日を楽しみにしていようと思うのだ。



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