盆栽と密かなリベンジ

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60の声を聞くというのに自分にはまだまだ知らないことが無限にある、と改めて思い知らされたのは先日訪れた Brooklyn Botanic Garden ブルックリン植物園でのことであった。

植物園の中央に位置する美しいガラス張りのAtrium アトリウムに、Bonsai Museum ボンサイミュージアムと名付けられた展示場があり、飾られた重厚な鉢植えの数々をじっくりと見て回っていたときのことだった。

とても暑い日で、アトリウムの中の他の植物展示よりもひときわしん、と静かな様子を見て「涼しそう!」と入った盆栽ミュージアム。植物についてワイワイと語ったりセルフィーを取りながら展示を見ていた来館者のグループも、そこに足を踏み入れると無言になるその不思議さ。全館空調が効いているので他とそんなに温度差があるわけはないのに、入ると汗がすーっと引いていく感じがある。

頭に浮かんだのは「さすがや日本….」。もっとわびさびのあるフレーズは思いつかんのかい。

アメリカでもBONSAIはよく知られていて、どこのガーデンセンターでも必ずボンサイ・コーナーがある。が、売っているものはかなりへんてこりん。ボンサイを知らない私の目にも明らかに「これ、ちゃうやろ」と苦笑してしまうものがほとんどなだけにアメリカのボンサイについては完全に「キワモノ」カテゴリーに分類、足を近づけたこともない。

いい大人になるまで日本で育っておきながらなんと文化への理解と感謝の足りていなかったことよ。まあアメリカに留学しよー、とそっちの方に目が行ってたわけであるが、神社、お寺。伝統的な建物、文化と芸能。食文化。歴史。これらの深さを若いときに知っていれば、各地を巡って貪欲にその美しさ、素晴らしさを堪能できたものを。ちきしょう。

盆栽しかり。まさかアラ還になってから、アメリカの展示場で、英語で書かれた解説文をよんでここまで心を動かされることになろうとは。

ちょっとみてこれ。

タイトルは「FUDO フドウ」と書かれている。婦道?解説を読み進む。

Fudo − ヒノキ科イブキ。何世紀もの歴史を駆け抜けてきたこの木は、1858年に「タヘイ」という男が糸魚川上流の山から持って来たと言い伝えられている。

のちに、世界的に有名な盆栽師、村田久蔵の大宮コレクションに加えられた。日本から到着後の1971年に枯れてしまったが、年輪から、少なく見積もっても樹齢800年以上と思われる。(マコーミックボンサイ所蔵)

オーケー、Fudoは「不動」に違いない….。枯れる以前からこの名がつけられていたのか、それとも枯れてしまってもう成長することのないこの木はアメリカで「不動」と命名されたのか?動かないのにこの躍動感は一体…..!

馴染みのある存在ではあるけれど盆栽に興味も基礎知識もなかった。「鉢の上という限られた空間で自然の中で育つ樹木本来の姿を再現する」という盆栽の存在の意味にさえ注意を払ったことがなかった。それを実現させるための植物学的知識、芸術的慧眼。そして何より忍耐。

我が家のトマトのように一日で何センチも伸びてくれるわけではないのだ。あーこの枝がこちらに伸びてくれたら、と切望しても今日明日でなんとかなるものではない。伸びた枝をようやく望みの形に剪定できるまでに何年もかかり、痺れが切れるほどのスローペースではありながら刻一刻と成長を続ける木には「完成」はない。それを見届けてから死ねるのか。

考えただけで(特にせっかちの私には)気が遠くなる芸術だ。いや、芸術というよりこれはもう「鍛錬」だ。武道、茶道、華道、香道、と「道」のつく鍛錬、盆栽道

解説を読めば読むほど盆栽というものがいかに日本人の価値観と精神世界を体現しているのかということが飲み込めてきた。私がにわか知識をここでやたらと書くよりも専門家による素晴らしい文献をウェブでいくらでも見ることができるので「盆栽、日本文化、盆栽の哲学、盆栽の歴史」などで検索し、またはAIに質問してぜひ読んでみてほしい。

そしてこの本、若い女性らしい可愛らしい文章で、盆栽の哲学がわかりやすく書かれていてとても役に立った。

「盆栽」が教えてくれる人生の答え
10年、20年先を読んで作る「時間の芸術」、盆栽。創業160年の老舗盆栽園の五代目が、日々、“小さな”盆栽から学んでいることは、生きていく上で欠かせないほど“大きな”真理だったーー。百年単位で生きる盆栽の中には、豊かに生きるヒントや学びたい...

下の写真は、ブルックリン植物園の盆栽ミュージアム入り口にかかっていた解説文。

後半。「浅い鉢と風通しと水はけの良い土が必須。1年から3年ごとに鉢から取り出し根の剪定と土壌の交換を行う。そうすることで十分に密度のある根が育ち水分と栄養分を効果的に吸収できるので葉冠は厚く茂り、葉っぱのサイズは小さくしかし花や実は通常の大きさに実るようになる。」

たまげたのは最後の一文。

「成長とともに自分が30フィート(9メートル)は高さのある大木と思い込むかのようにゆっくりと適合していく。」

海を見下ろす断崖で荒風に吹かれて立つ松の大木。この鉢の中の松の木も、若木の時に盆栽用にと採取されなければ同じ運命だった。ちんまりと座るこの松の木は、それを知らない。自分は崖の上で堂々と育っている松の木と思い込み、自分のDNAに組み込まれた成長をただ黙々と続けているだけだ。

木を騙す…。島国で、時に襲う天災には自然の脅威にただひれ伏すしか手立てのない日本人が、大木という自然を弄び、騙し、完全に思いのままに操る。そんな密かなリベンジもまた、盆栽の隠れた魅力のひとつ、とは言えまいか。

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